Donnnie Trumpet & the Social Experiment / Surf

今年の夏にピッチフォークのレビューを訳したものを今さらあげます。

誤訳や意味不明な訳がたくさんあると思われます。基本的には海外サイトのレビューを読むときはなんとなく意味をつかむくらいでいいやという気持ちで読んでいますが、こうしてちゃんと全文訳そうとするとすごく難しくて、ゲロゲロした覚えがあります。でもまた時間があるときにやってみたいと思います。

                       

Donnnie Trumpet & the Social Experiment / Surf

  

『Surf』はまるでビーチボーイズのようなコーラスから始まり、1970年代のAMラジオのはねるようなポップなメロディーとともに終わる。こうした構成はある世界観を表現しており、タイトルからもわかるように、今作は”musical vacation”なのである。Donnie Trumpet & the Social Experimentはまっすぐ道を進むのではなく、外に飛び出して探検する新たな入り江と支流を見つけたのだ。『Surf』には矛盾点がある。野心的でありながらもまるでおどけているかのようだし、のんきであるようで非常に倫理的だったりする。そして、様々な分野から影響を受けているものの、全体的に首尾一貫したものを感じさせる。それはインディーやヒップホップ、ファンク、ロック、ゴスペル、R&B、ライオンキングのサウンドトラックなどの既存の音楽を昇華した全く新しいサウンドなのだ。また、多くのキャストを呼び、彼らにそれぞれのパートを演奏させているにも関わらず、ゲストたちはみんなthe Social Experimentの良さのもとで生きている。今作は様々な考え方や意向を表現していると思われるが、その中でもとりわけ大きな主題は、友情を賞賛し、コラボレーションによる錬金術のような力の価値を証明することにあるのではないだろうか。

 

 Chance the Rapperの成功により、Donnie Trumpet & the Social Experimentは故意にそのような曲がりくねったアプローチをとることができた。Chanceが大きく躍進した二枚目のミックステープ『Acid Rap』の後も、彼は商業的な魅力に全く興味を示さなかった。そうした制限やプレッシャーから解放されて、彼を献身的に支えてくれる家族とともに、彼は時間とエネルギーを彼の仲間たちにつかったのだった。聞いたことがあるかもしれないが、今作はChance the Rapperではなく、Donnie Trumpet & the Social Experiment(すなわち Nico Segal and Peter "Cottontale" Wilkins, Nate Fox, Greg "Stix" Landfair Jr., and Chancelor Bennett彼自身)名義の作品である。彼らはChanceのツアーバンドとしての時間とともに成長を遂げ、非常に大規模な集団となった。しかしパッケージに記載されている名前が何であろうと、このプロジェクトがChance the Rapperの功績であるという事実は変わらない。今作をChance the Rapper目当てで聴く人はいまだに多いだろうし、ゲストがどれだけ参加しても、カバーアートの主役が誰であっても、その指針となる精神はChance自身の考えや価値観を表しているのではないだろうか。『Acid Rap』よりはその種の要素が弱く、非個人的なスタイルではあるかもしれないが。

 しかし、Donnie Trumpetこそが表向きの主役であり、今作では実際に彼のトランペットによる印象的な間奏がはっきり目立つ場面が多く存在する。”Nothing Came to Me”や”Something Came to Me”での、歪んだエフェクトがかかった彼の演奏はDon Ellis(1934~1978 トランペット奏者)やJon Hassell(1937~ トランペット奏者)を思い出させる。しかしDonnie Trumpetは作品全体を通してはっきり存在感をあらわしている。”Slip Slide”ではリズムにアクセントを与えることでマーチングバンドとマイケル・ジャクソンのダンスフロアーを融合させているし、”Just Wait”では熱烈なソロを披露している。全般的な音の詳細な設計は、多様なジャンルのレコードが多様なジャンルのサウンドとして昇華されたように、次第に首尾一貫したものとして理解された。たとえば、”Just Wait”ではBone Thugs(アメリカのヒップホップグループ)のようなハーモニーが、”Wanna Be Cool”ではRick James(1948~2004 アメリカのファンクミュージシャン)のようなファンクのグルーヴが、”Go”では”American Boy”(Estelleの2008年の楽曲)のようなディスコの雰囲気が感じられる。

 

 様々な影響や考え方があるにも関わらず、詳しくみてみると彼らが表現するものには一貫性が感じられる。余白の使い方やリズムのバリエーション、独創的な奇抜さなど、彼らの音楽性は意識的に気まぐれな陽気さや心地良さ、自由を伝えようとしているような気がしてならない。ある曲はまるで枠のない絵のようだし、完全に機能する防壁というよりはむしろ溶けてしまった砂の城みたいな感じがする。ある意味では、その音の集まりというものはDJミックスとそう異なったものでもないのではないだろうか。おそらく、Avaranches(オーストラリアのロックバンド)がMizell Brothers(アメリカの音楽制作チーム)とKirk Franklin(1970~アメリカのゴスペル歌手)によってプロデュースされて、Art Ensemble of Chicago(アメリカのフリー・ジャズ・バンド)のLester Bowie(1941~ トランペット奏者)を大きくフィーチャリングした折衷主義ともいえる海岸沿いのパーティーを思い浮かべてみてもらえるといいだろう。

 

 しかし、これらの要素はChanceの性格の癖に大きく由来する。また、これらの癖は時に他方面でもうかがえる。誰かがChanceに対して怒っている場面など想像しにくいだろう。それに、彼がラップ・スターとなってそれはもうきちんとしていて精神的に安定した人物のようにみえるかもしれない。しかし彼は大胆に、そして悪気もなしに、上流の人向けではなく今までカッコ悪いと思われてきた美学を信じている。それは、ミュージカルでの気取った芝居やスラム・ポエトリーでの叙情的な形式、幼少時代の思い出だけではなく、小さい頃の無邪気さに対する気持ちへのノスタルジアなどに表れている。彼のデビュープロジェクトである10Dayはその無邪気さではっきりと目立っており、その純真さが意図的なものではないということは、簡単にみてとれた。しかし、今やそれは確固とした目的のあるものだと思えてならない。Big SeanやKYLE、Jeremihをフィーチャリングした楽曲である”Wanna Be Cool”では、それが明白にわかるだろう。社会的なプレッシャーに立ち向かう自己愛と、カッコよさを追及することの無益さこそがこの曲の主題であり、これはただの2015年にアップデートされた”Hip to Be Square(Huey Lewis & The Newsの楽曲名)”ではなく、Chanceの視野が広がり達観したアプローチをとるようになったことを示しているように思う。(ここでのHip to Be Squareは、前は好き勝手やっていて自然と自分の無邪気さ、気まぐれさというものが楽曲に表れていたが、成長してそうした自分の個性は社会的

重圧に反逆する力となるし、大きな長所であるということを理解した上でアイデンティティとしている、というような意味なのではないだろうか。)

 

『Asid Rap』は批評家のお気に入りであるが、”シリアス”(自叙伝のようだったり社会政治的だったり)な主題を扱っており、ぼんやりとした闇をほのめかしていた。(Chanceや彼の友達を襲う外部トラブルに取り組んで、彼らが躍進するための場所をつくってくれたアーティストのこと。)しかし、今作では心配事は封じ込められて(私たちは予期に反してバカンスに)、まるで水面下に隠してあったバルーンを大喜びで急に地上に解き放つような、楽観的な自己容認ともいえるようなレトリックの快楽にふけっている曲が多くある。しかしこれはごまかしではなく、教訓的な楽観なのである。それはしばしば知恵という形をとり、議論や生活必需品のように実際にとても役に立つ。”Slip Slide”の最後の部分が分かり易い例だ。”It ain’t so easy,but it’s not so hard/To stand up,stand up,but it’s just too easy to sit back down.”(”Just Wait”では、”Good things come to those that wait”というフックが同じような構成で繰り返される。)

 

しかし、今作が首尾一貫したChance自身の考え方をほのめかしているように、彼は自分自身をあまりまじめに考えすぎないように仕向けている。それが最も明白にうかがえるのが、どこかはっきりしない楽曲である”Windows”だろう。彼はこの曲を今作におけるフェイバリットだと語っている。その”Window”の歌詞には「”Don’t trust a word I say”(僕がいうことを信用しないで)」というものがあり、こうした謎めいたリリックと、パーカッションを目立たせるためにChanceの声を調整した風変わりな構成に重きが置かれた曲だ。彼のゲストリストに対する気前の良さは、極限とも言っていいくらいに平等である。ChanceとDonnieは彼らの故郷の友達(ラッパーのSaba、Joey Purp、King LouieやNoname Gypsy)を、レジェンド(Erykah BaduBusta Rhymes)や著名なスターたち(MigosのQuavoやJ.Cole)と対等な関係を築けるまでにした。彼らの地元の仲間たちのパートを最も輝かせている例がいくつかある。たとえば、“Questions”でのシンガーソングライターのJamila Woodsのフィーチャリングは音調にバランスを与えるだけでなく、今作の感動的な部分の中心となっており、哀愁に満ちた考察をさせる役割を果たしているのだ。

 

Chanceの信念に基づいたアプローチにおける核心は、Kendrick Lamarとの関係を継続する必要性と、Reggie Ugwu(ライター)が”radical Christianity(過激なキリスト教信仰)と表現したものをそれとなく表しているような気がする。また、確実に彼の音楽はゴスペルにルーツがあり、特定の地域でキリスト教信仰があっさりと忘れられてしまっているようなことがあれば、彼はキリストに対する名分を主張する。教会は”Sanday Candy”においてもはっきりと触れられている。しかし、Chanceの宗教における立場は理解しにくい。”Sunday Candy”は確かに宗教的な意義のある曲だと思われるが、この曲は第一に家族愛についての曲であるし、宗教的な生活ではなく、友人や家族との愛を通じた活発で印象深いつながりこそがキリスト教における全ての特徴になりうるからだ。

 

アバンギャルド・チェロ奏者/ディスコ・プロデューサー/ソングライターであるArthur Rusell等で結成された音楽グループDinosaur Lによるディスコの名曲に”Go Bang”がある。パラダイス・ガレージ(1980年代アメリカにあったディスコで、伝説的なDJラリー・レヴァンがプレイいていた)でヴォーカリストが”I want to see,all my friends at once!/I’d do anything,to get the chance to go back!”と シャウトするところで人気になった。色んな意味で、『Surf』を制作し終えたときの感情がどのようなものであるかという答えはその創作におけるファンタジーの中にあるのではないだろうか。共に創作意欲を探求するために活動し、それぞれのアーティストの特徴を生かして一つのプロジェクトをつくりあげた、彼らのファン層を確かなものとしたミュージシャンや友人たちのなかで。このプロジェクトの原動力となったのはコラボレーションの価値であり、既に達成感を感じさせるが、同時に未来の可能性にも期待していいだろう。ChanceはMichael Jackson級のポピュラーな成功を認めており、彼がここで過ごす間は彼のラップにも将来に目を向ける要素があるだろう。まるでChanceが声に出す前からあらかじめ決められていたかのように、現在活動しているラッパーたちに対抗する完全な正確さと詩的なスキルによるリリックが彼の口からすいすいと紡ぎだされるのである。彼の今後に注目だ。